上達屋の"放認主義”についてのページです。

上達屋の“放認主義”とは

上達屋の基本思想 ”

「ほめず、教えず、助言せず”。放認主義”を信条とし、選手の人間的成長を遂げる過程を
大切に観守りつづけ、選手本人がサポートを欲する瞬間を感じ取り、最適なタイミングで
世界最高水準の上達メソッドを用いてパフォーマンス向上のサポートを行う」。

これが22年間変わらない上達屋の基本思想です。

野球が上手ければ上達屋は無かった?

ボク、手塚一志は、自分が野球がヘタだったおかげでずいぶんいやな想いをしてきました。
たがが野球の技能が劣るというだけで指導者から「人間としての価値がない」という
あつかいを受けてきた経験があるのです。

子どもの頃からスポーツに夢中だったボクは、そのイヤな想いをプラスに変えることで
一生涯スポーツに関わって行こうと決意します。
3つの大学でスポーツ科学を修め、プロ5球団に所属し、上達屋というこの道場を
22年前に立ち上げ、これまで約1万人選手をサポートすることができました。
この間に著した書籍は28冊、累計発行部数は67万部に登ります。

そして今、上達屋という場所で、その志に共感してくれたスタッフたちとともに、
スポーツ選手やチームの競技能力を引き上げるサポートする際の反面教師となって
活かされているのです。

いま、心の底から「ヘタでよかったあ・・・」と想えます。

PCとは選手の心意気を認める仕事

もちろん、選手の人格がスポーツの上手いヘタで決まるはずはありません。
スポーツのパフォーマンスの善し悪しは、素質、環境、努力、境遇、必要性、ライバル、
タイミング・・・など、さまざまなパラメータが掛け合わさった結果として現れるモノです。

ですから、ボクたちPCの仕事は、それらすべてを受け取り”認め”ることがもっとも重要な
心構えなのです。
そのプレーヤーだけの、さまざま困難や喜びや悔しさをまず”認め”、そのうえで最適な
上達メソッドを最適なタイミングと分量で提供してあげる。

その接し方は、日本代表のようなトップアスリートから3歳になったばかりのキッズプレーヤー、
また大人になってはじめてスポーツにチャレンジしたいという気持ちになった大人初心者まで、
すべての方に対し通底させている上達屋ルールなのです。

週末罵倒列島ニッポン!

ところが週末になると、日本中のあちらこちらのグランドでは、スポーツの楽しさに目覚め掛け
たまだユニフォームがブカブカのチビッコ選手にむかって、大人の指導者からの罵倒の嵐が吹
き荒れています。

学生時代に「人あつかい」をされなかったボクですが、実はこの「罵倒」経験はほとんどありま
せん。
約40年前の徳島の田舎で野球ごっこに明け暮れた時代には、子どもたちだけで遊んでい
たので、罵倒する役の大人がいなかったためです。

だからあの頃は、ただただ楽しかった。自分たちだけのグランド(らしきモノ)で、自分たちだけ
のルールを作り、カラーバットにカラーボールで、文字通り一日中飽きもせず野球ごっこに明け
暮れた小学校時代でした。

子どもの遊びが原点

そうなのです。この罵倒問題は比較的最近生まれたスポーツ問題なのです。
この傾向はいつからなのか? もしかするとそれは大人の指導者が子どもの野球に口出しす
るようになってからかもしれません。

ボクの場合、中学でも指導者は不在に近い状態だったゆえ、ここでも楽しかったり、負けて
悔しかった想い出しかなく、誰かから侮辱されたような経験はありませんでした。

今は、大人抜きでスポーツをさせてもらえない不幸な時代・・・なのかもしれません。

優秀なコーチは必要

たしかに、もし自分が子どもの頃に世界でもっとも上達効率の高い指導を受けていたら、
その後の野球人生に少なからず影響が出たと思います。
その意味で、的確な指導(コーチング)ができる指導者の存在はやはり重要です。

ただ、上手くなることと、罵倒するというテクニックは無関係です。もっと別の方法があるはず
です。 何よりも、罵倒されている子どもたちの顔つきが死んでいる。さっきの休憩時間の間に
なかま同士でじゃれ合っていたあの楽しそうな表情はどこに消えたかのか?あのむじゃきさこそ、
まさに子どもらしい活き活きとした表情ではないかと思うのです?

この3つはスポーツには必要なし

もちろん、じゃれ合っているだけではスポーツも人間的にも成長は望めないでしょう。
チーム内での厳しい競争が折れない心を育み、真剣勝負で望むからこそ対戦相手への
リスペクト心が育ち、このようにスポーツに没頭できる環境とそれを支えてくれる両親や周りの
サポートに感謝の気持ちを大切にする人格面の成長も、善き指導者に恵まれたことによって
より的確に導かれる物であるはずです。

その意味で子どもスポーツへの大人の関与はけして悪いことばかりではないはずです。
いえまだ未熟な子どもたちにとって、先人の深い知恵はスポーツを超えてこれから先の山あり
谷ありの苦難の人生に立ちむかう際の重要な指針になるはずです。

つまり、大人が必要ないのではなく、

●罵倒
●人格否定
●おせっかいないじり指導

この3つのコーチングテクニックもどきが必要ないのです。

なぜ罵倒がはびこるのか?

ではなぜ、どのグランドでも罵倒がはびこるのでしょうか?
もしかすると、「子どものため心を鬼にして厳しく接している」とカン違いしているかもしれません。
またそれによって「なにくそー、負けてなるモノかあ〜」という反骨心に火が付くのを待っていると。

さあ、その真偽のほどはどうでしょう? いま、ボクが言えるのは、罵倒されている子どもたちの
表情をよく見てあげてください。そして、罵倒以外にも、もっと効率よく彼らの心を付ける方法は
ありますよ、という投げかけです。

つぎになぜ、プレーの善し悪しで人格を否定するのか?
それはもしかすると、監督・コーチ自体が、勝ちたい、上手くさせたい願望が強いからでしょうか?
それよりも先に、子どもたちの勝ちたい、上手くなりたい願望に火を付けるテクニックを磨いては
どうでしょう。
キッズ・ジュニアのスポーツは、指導者の自己実現の場ではないはずです。

そしてなぜ、選手が欲してないタイミングで指導を押しつけるのか?
ヒトの運動習熟の回路や仕組みを理解してないことが大きな理由かと思います。
足らないことや、修整すべきところを指摘することが指導だとカン違いしているケースが
目立ちます。
コーチングはタイミングが命なのです。彼らが苦しんで苦しんで自力ではどうしようもなくなった
そのときにはじめて、彼らの脳とカラダにカイゼンのための新たな重要なヒントを吸収する余地
が生まれるからです。
歯が痛くないのに、歯医者に行く気が起きないのと同じ心理です。

死ぬこと以外はすべてかすり傷

スポーツを指導する際の大人の問題行動は他にもあるかもしれません。ただ、大きくは
この3つの大人コーチの接し方(発想)が、子どもの心を傷つけ、スポーツ嫌いを日々
量産し続けているのではないかと感じます。

「○○、一人で悩むな。いつでも相談に来い。なにがあってもオレは○○の味方だという
ことを忘れないでいてくれ。困ったらいつでも話は聴くからな」。

本当に困った事態に直面し自力ではどうしようもできなくなったとき、その時こそが大人の
出番です。そのためにボクたちPCは、全身全霊を掛けその選手の心技体の微少な変化
に敏感であり続けなければ失格です。

それであってなお、転ばぬ先の助言をすることはしません。
「死ぬこと以外はすべてかすり傷」。
命の危険に関わるようなことがないような失敗ならば、むしろどんどん体験させるべきだと
考えています。それがあるからこそ、悔しさが芽生え、反骨心に火が付き、彼が自身の創
意工夫で問題の根底を掘り下げ解決策をひねり出し勇敢に挑むことの重要さに目覚め
る習慣を身に付けるチャンスに出会えるからです。

放して認める放認主義

もしボクがチームのコーチだったら、罵倒の代わりに彼のそのみごとなもがきっぷりを認めて
あげたい。
「すごいぞ○○。よく見つけたなあ。いや、もし答えが見つからなかったとしても、素晴らしい
トライだっだぞ。自分で見つけようと試みた○○のことをこのチームの指導者として誇りに想う」と。

さらにこう続け、野に放つことでしょう。
「となると、次のつまずきも楽しみだなあ。だって、また成長できるチャンスがくるんだぞ。
ようし、また命がけで遊んでこい!」

この選手はすでにボクが知り得ない彼だけの特殊な能力”持っている”ことを信じ、それの芽が
出て発芽できるようになるタイミングを待っている。自分の狭い経験則からは、彼の人生を認める
ことはできても、コントロールすることはできない。 「この子はいま大切な経験をしている。時間は
掛かるかもしれないが、いままさに挑むことの喜びに気付きはじめている。大人サイドにできることは、
それを信じ、いまはじっと観守り待つことこそ肝要なんだ」。

BOSSの口癖

ボクが、上達屋のPCスタッフに口癖のように伝えている言葉があります。

『ボクたちは、選手の欠点を修整する仕事をしているのではない。
 魂を揺さぶるその瞬間に出会ってもらう為の準備に携わらせていただいているのだ』


上達屋代表 手塚一志
上達屋トップはこちら